和辻博士における「法」と「空」

和辻博士における「法」と「空」

 袴谷憲昭氏の「和辻博士における『法』と『空』理解の問題点」(駒澤大学仏教学部論集19、昭和63年10月)を読んでいる。だいぶ以前に氏から頂戴したものを、久しぶりに読み返しているのである。
 
 袴谷氏はローゼンベルグ(Otto Rosenberg)があげる仏教の「法」の七義のうち次の二義に注目する。

 (1)性質(Eigenschaft)、属性(Attribut)、述語(Prädikat)
 (2)実体的任持者(substantieller Träger)、意識的生命の個々の要素の超越的基体(transzendentes Substract des einzelnen Elementes bewuß ten Lebens)

 ローゼンベルグは(2)を選んだが、袴谷氏の後輩である松本史朗氏は(1)を選ぶ。松本氏は「第一の意味だけが『法』の基本的意味だ」としたが、袴谷氏はそのことを「画期的」といって絶賛する。
 袴谷氏は次のように記す。

 《 松本氏は、「法(dharma、ダルマ)」とは「保つもの」という通念が風靡している中で、「保たれるもの(das Getragene)」としての「性質(Eigenschaft)」こそが法の基本的意味だと主張したために、一見奇異な感じを与えたかもしれないが、ローゼンベルグが「術語のこの特殊的意味は一般的文献の中には見出されない」とは述べつつも、その第一義として列挙しているごとく、インド思想一般でも dharma, adharma のように「性質」の意味で用いられ、今日のヒンディー語にもその意味が極普通に受け継がれていることを考えれば、むしろ「性質」を「法」の第一義とするほうが自然なのである。更に、それよりもなによりも、仏教の「法」を「性質」の意味に限定することによって、それは、それを支えるような「基体」としての「法」の理解をそこから払拭し、時間的因果関係のみとしてある「無常」にして「無我」なる「縁起」の危機的「法」だけを意味しえるようになった点に、松本氏の指摘の高度に優れた面があるといわなければならない。》(p.145)

 袴谷氏は「通念が風靡している」といっているが、氏の頭にあるのは和辻の学説などである。袴谷氏はまたスチェルバトスコイの次の言葉を引用する。

 《 「法」は単なる「もの」ではなくあくまでも「意(manas)」の対象である。「法」と同義の ”nis-satta” は「生命なきもの」ではなく、「無我(anātman)と同義である。」(趣意)

 私は袴谷氏のこの論文を読んで、カントとナーガールジュナ(竜樹)について私がかつて書いたブログ「言葉の空なることについて竜樹とカントに学ぶ」(2020.12.1)を思い起こした。以下にその記事を記す。

 1.言葉が空であること(実体がないこと)は仏教ではしばしば、そして西洋人の知識人のあいだではときどき、言われることであるが、どうして空なのかという理由については分かりやすく説明されたことが滅多にない。
 ところが、ドイツの哲学者・カントとインドの仏教哲学者・竜樹(ナーガールジュナ、3世紀)によってそれが明解に説明されている。

 2.カントはその著『純粋理性批判』の第2篇第1章「純粋理性の誤謬推理について」(宇都宮芳明監訳『純粋理性批判』上、以文社、2004による)において「私とはなにか」を論じている。その中に次の言葉がある。
 《「私は思考する」は「私」という主語と「思考する」という述語からなっている。主語は形式的にあげられるものであって内容がない。しかし、主語は述語を添えられることによって内容をもつものとなる。すなわち「私」は「思考する存在」という内容をもつものとなるのである。》
 ひとは「私」という言葉は最初から内容を持つものと思いこんでいる。しかし、カントがいうように、「私は思考する」というとき、「私」という段階では、「私」は何の内容をも持っていない。この「私」に述語「思考する」が添えられて初めて「私」は「思考する存在」という内容を持つものとなる。すなわち「私」自体は何の内容も持っていない。

 3.竜樹はその著『中論』で「行く者は行かない」という命題を提示して、言葉が空なることを説明する。「行く者は行かない」はサンスクリット語で gantā na gacchati であり、英訳者ロビンソンはそれを A goer does not go. と訳している。
 竜樹はいう。「行く者は行く」という表現はおかしい。なぜならこの表現では、現象は一つなのに、「行く」という言葉が二度も現れる。だから、むしろ「行く者は行かない」というほうがよい、と。
 かれの議論は、ひとがふだん使わない表現を取り上げて論じているので、一般のひとには分かりにくい。私が「行く者は行く」を「太郎は行く」という一般のひとでも使う表現に変えて、かれのいわんとしていることを説明しよう。
 ひとが「太郎は行く」と発話するとき、その「太郎」の中にはすでに「行く」が含まれている。かれが「太郎」というとき、かれは「行く太郎」を目にしている、あるいは頭に描いているからである。この「太郎」は「行く」と切り離せない。現象は全一なものである。「行く」から切り離された「太郎」は存在しない。かれのいう「太郎は行く」は「行く太郎は行く」というに等しい。「行く太郎は行く」というと「行く」が重複していて誰もが不自然と感じるが、「太郎は行く」というと不自然さが消える。これは言葉のすり替えによるものであって、「太郎」が「行く太郎」であることには変わりがない。ひとは言葉をすり替えることによって不自然さを感じないような習慣を身につけたのである。 
 さらにこの解説を敷衍しよう。ひとの言語生活は、つぎのような表現から成っている。
  太郎は行く。
  太郎はころぶ。
  太郎は笑う。
  太郎は泣く。
  太郎は……。
 ひとは上の数々の表現のなかから、太郎という不変の存在を抽出してくる。太郎はつねに、行く太郎か、ころぶ太郎か、笑う太郎か、泣く太郎か、……する太郎か、いずれかの太郎であるはずなのに、どの動作とも無関係の「太郎」を抽出してくる。そのような抽象的な「太郎」は決して存在しない。それにもかかわらず、ひとはあたかもそのような「太郎」が存在するかのように思いこんで「太郎」という。
 いま主語「太郎」について考えたが、述語「行く」についても同様のことがいえる。「行く」という動作そのものはない。つねに何者かが行くのである。だが、ひとは「行く者」の存在しない「行く」があると思い込んでいる。そして出来事は主語と述語を組み合わせることによって正しく表現でき、さらに一つ一つの言葉そのものも現実を正しく示しうるものと考えてしまう。
 だが、竜樹はいう。「太郎」という言葉も「行く」という言葉も虚妄である。空にして中身なし。ただ仮名(けみょう)あるのみ。幻のごとく化(け)のごとし、と。竜樹は言葉が空なるものであることをこのようにして説明したのである。

 4.この竜樹の「太郎は行く」はカントの「私は思考する」の議論に相似する。「太郎は行く」において「太郎」は何の内容も持っていない。述語「行く」が添えられて始めて「太郎」は「行く太郎」という内容を持つものとなる。
 ところが、ひとは「私」というものを人間の本性と考えて(すなわち実体視して)疑わないので、カントのこの「超越論的霊魂論」もこのような「私」について述べるのだと誤解するのである。カントはいう。
 《この超越論的霊魂論は、思考する存在者としてのわれわれの本性に関する純粋理性の学である、と誤って考えられている。しかしながら、われわれがこの学の根底に置くことができるのは、単純な、それ自体では完全に内容を欠いた「私」という表象以外の何物でもなく、この表象については、それは概念である、と言うことすらできないのであって、むしろこの表象は、あらゆる概念に伴うたんなる意識である。》(宇都宮監訳、前掲書、p.429)
 カントはいう。《ところで、思考するこの私、あるいは彼もしくはそれ(物)によっては、思考の超越論的主観=X以外の何物も表象されない。この超越論的主観は、その述語である思考によってのみ認識されるのであって、それだけを切り離しては、われわれは決していささかの概念もそれについて持つことはできない。》
 竜樹は主語として「行く者」(私のいう「太郎」)しかあげておらず、カントは「私」しかあげていないが、どんな単語を主語の位置に置いても、同じことがいえるはずである。
 私はここでイスラム教徒が唱える「アッラー・アクバル」という言葉を想起する。これは「神は偉大なり」を意味するという。この「神」も、竜樹やカントがいうように、無内容である。もし内容があるなら、わざわざ「偉大なり」という言葉を付け加える必要はない。「神」というだけで十分である。そうでないから、「偉大なり」と付け加えるのである。
 そもそもひとは「偉大なるもの」を「神」と名づけたのである。したがって「神は偉大なり」とは「偉大なる神は偉大なり」という同語反復にすぎない。竜樹のいう「行く者は行く」と同然である。ひとはそのことに気付かないか、そのことを忘れてしまっているのである。だから「神」(およびすべての単語)をそれ自体で実体あるものと考えてしまう。
 ただし、日常生活においては、主語を立てることは必要である。話者には「行く」だけで、だれが行くのか分かっていても、聞き手には分からない。だから、「太郎は」とか「花子は」とか「かれは」とかいい添えねばならない。これが言葉というものの運命である。出来事と出来事の伝達のあいだにギャップがあるのである。だから、気を付けねばならないのは、言葉は聞き手に出来事の大枠を知らせる手段であって、出来事そのものの正確な写しではないということである。

 拙ブログの引用は以上であるが、その内容が袴谷氏、松本氏の考え方に符合することは大方のひとが認めるであろう。どうやら「実体」概念は形容詞(述語)が名詞化されることによって生まれるものらしい。松本氏の「基体説」(dhātu-vāda)批判と、袴谷氏の「本覚思想」批判は仏教界における伝統的な実体概念をしりぞけたものとして知られている。

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