二種類の「信」

二種類の「信」

 「信」とは「ひとの言葉を受け入れること」である。「信」に二種類ある。そのことについて述べたい。
 「信」という漢字は「人」という「へん」(偏)と「言」という「つくり」(旁)からなる。すなわち「信」は「ひとの言葉」を意味する。
 「口」の上にある部分はもと「辛」という字だったそうである。「辛」は柄のついた針を意味するという。それが口の上にあるのは「嘘をいったら刺すぞ、罰するぞ」ということを意味し、「言」は嘘いつわりのない言葉を意味するそうである。ここから「信」から「まこと」(真言〔まこと〕)の意味が派出し、「信じる」という動詞が派生したという。

 さて「信」という字の中の「人」に重きを置くか、「言」に重きを置くかで、「信」に二種類が生じる。「人」に重きを置くと「偉そうな人がいうことだから受け入れる」という権威主義的な「信」が生まれ、「言」に重きを置くと、言葉そのものが正しいか否かを吟味し、正しいものを受け入れるという合理主義的な「信」が生まれる。キリスト教の「信」は前者であり、仏教の「信」は後者である。
 キリスト教では credo (信じる)という言葉を重視する。テルトリアヌスは「不合理なるがゆえにわれ信ず」(credo quia absurdum.)といった。アンセルムスは「知らんがためにわれ信ず」(credo ut intelligam.)といった。アンセルムスはこの句を「信ぜんがために知解する」(intelligo ut credam.)に対比させていっている。
 テルトリアヌスの言葉は、「信」とは、理性ではどうしても受け入れられないから、これで受け入れようという意味の「信」である。かれの言葉は「信」を定義したものといってもよいものである。
 アンセルムスの場合、かれが斥けた「信ぜんがために知解する」のほうが正しく、かれが肯定する「知らんがためにわれ信ず」はナンセンスである。信ずるとは知解できないからこそ信ずることであるからである。テルトリアヌスがそういっているではないか。
 仏教の「信」は自分が納得したもののみを受け入れるという意味の「信」である。つまり確信である。揺らぐことのない「信」である。その「信」はまさにアンセルムスの「信ぜんがために知解する」の「信」である。
 ブッダは弟子たちにいった。「自己自身をよりどころとせよ、他人をよりどころとしてはならない。仏教の正しい教えをよりどころとし、他のものをよりどころとしてはならない」(これを「自帰依、法帰依」という)。偉そうなひとがいったから受け入れるということがあってはならない、あくまでも自分が正しいと思ったこと、すなわち法〔真理〕であると確信したものをを受け入れなさい、というのである。(水野弘元『釈尊の生涯』増補版、春秋社、p.289.)
 仏教では「信」を意味する言葉はśraddhā である。これは心を澄ませて批判なく受け入れる信を意味する。śraddhā が credo と語源を同じくすることを知ると、この「信」はキリスト教の「信」に近いものであることが推測できる。
 だが大乗仏教になるともう一つの「信」が優勢になる。adhimukti がそれであり、「信解〔しんげ〕」と訳される。「解」という言葉が含まれていることから分かるように、この「信」は「知」を伴った「信」、理性に支えられた信である。人類が賢くなったために理性を働かせることができるようになり、理性に支えられた「信」が可能になったのである。mukti は語根muc-(理解する)から作られた名詞である。muc-から作られた名詞にmokṣa もあり、これは「解脱」と訳される。仏教では以上の二つの「信」のうち前者(śraddhā)を「信仰〔しんごう〕」と呼び、後者(adhimukti)を「信解」と呼んでいる。「仰」と「解」の違いに注意されたい。大乗仏教の代表的な経典である『法華経』は「信解」を重視している。その第4章の題名は「信解品」であり、第17章「分別功徳品」は「一念信解」を説いている。
 駒澤大学の袴谷憲昭氏は śraddhā と adhimukti の違いについて非常に重要な資料を提示してくれる。博識で稀有なる渉猟力のある氏ならではのことである。アサンガの『阿毘達磨集論』に次の言葉があるという。

〇 śraddhā は実有性と有徳性と可能性とに対して、信服し信頼し熱望することであり、欲望に依り所をもたらすことを機能している。
(袴谷憲昭「如来蔵説と唯識説における信の構造」『仏教思想』11『信』、1992,p.218)
〇 adhimukti は確定された物事に対して、確定したとおりに限定することであり、変節できないことを機能している。(ibid.,p.216)
(袴谷氏はśraddhā を「信」と訳し、 adhimuktiを「容認」と訳しているが、ここではサンスクリット原語に戻させていただく。)

 śraddhāは「熱望する」や「欲望する」という言葉と結びついている。これは「信」が「疑」を引きずりながら、それを剥ぎ落そうともがく精神を表すものである。adhimuktiは「確定された」とか「確定されたとおりに限定する」という言葉が結びついている。これは「信」が「疑」が完全に取り除かれた信であることを意味する。
 こんなに素晴らしい資料を提供してくれておきながら、そこから氏が引き出す結論は私を驚かせる。 śraddhā のうほが adhimukti より高級だというのである。氏によると、後者は批判精神を欠く「信」であり、非仏教的である。私にはこれは顛倒した考えとしか思えない。その考えは『法華経』をつねに高く評価する氏の言説とも矛盾するのではないか。
 袴谷氏はれっきとした仏教徒である。だが氏の諸論文を見ると、氏にはキリスト教的発想を感じさせる言葉が少なくない。これは推測に過ぎないが、氏はキリスト教の credo の概念に惹かれるあまり、それと同語源のśraddhā に深いものがあるように感じ、これを高く評価し、逆にadhimukti のほうを批判精神を欠く「信」、非理性的な「信」と考えてしまったのではないか。

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