偏見の根深さ

偏見の根深さ

 2022.5.2付け東京新聞にエジプト人の両親を持つイスラム教徒で、金沢市の国際高等専門学校三年に通うアファフ・アラーさん(18)へのインタビュー記事がある。見出しは

 「文化の平等」
 「違うと思ったら声を上げ行動を」

である。彼女はこう語り始める。

 《 身の周りには差別や不平等が意外にいっぱいあります。「違うんじゃないか」と思ったときは声を上げて行動することが大事。》

 私はここまで読んだとき、彼女がイスラムの男女差別を批判するのだろうと思った。

 《 中学生になり、テニス部に入ろうとしたとき、先生から「テニスの世界では脚を出さないといけない」、「服装の規定を守らないと試合に出られない」と説明されました。》

 私は彼女が「女性だからと言って脚を出すなというのは何てひどい差別だ」というのだろうと思った。

 《ヒジャブをまとうことは、大きな決断。体形や髪質などの見た目ではなく、自分自身を見てもらうこと、「これが私」と表明することを意味します。》

 私は彼女が「ありのままの自分」を見てもらいたいからヒジャブは付けたくないというのだろうと思った。

 《先生の言葉は、多様性を重んじる社会の流れに反していると思いました。テニス界の規定も追いついていない。社会全体の問題だと感じました。》

 私は「おやおや」と思った。どうも私は勘違いしていたらしい。彼女はイスラムを批判するどころか、イスラムに反する考えを批判しているのだということに気付いた。

 彼女は彼女の思いを先生に伝え、結局、黒い長袖やタイツなら付けたままプレーすることを認められた。翌年、ヒジャブをしているインドネシア出身の後輩は「ちゃんと脚を出さないと」と言われることなく入部できた。声をあげるのは自分のためだけでなく、周りにもいい影響があるんだと実感しました。》

 私はこの特集記事を読んで、狐につままれたような気がしている。彼女の頭にあるのは「文化の平等」ばかりで、「ジェンダーの平等」の問題意識がまったくない。「ジェンダー」に関わる問題が生じているにもかかわらずである。テニスの服装より、「ジェンダーの平等」のほうが問題として根本的ではないか。そもそも「ジェンダーの平等」があれば、テニスの服装の問題などは起きなかったはずである。「違うんじゃないか」と思ったときは声を上げることが大事だというなら、男女平等を叫ぶ声のほうをあげるべきではないか。
 金沢の高校は彼女の要求を受け入れた。「文化の平等」を尊重したものとして評価したい。それはイスラム教徒の仏像破壊の行為に比べると雲泥の相違である。
 子供のときから培われた根深い偏見というものがある。その偏見にずっぷり浸ってしまうと、偏見が偏見であることが分からなくなり、それと異なる見解がみな偏見に見えてしまう。自分の考えを疑ってみるという知恵がまったく浮かばなくなる。今回の記事はみごとにそのことを教えてくれた。

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