政治家には表現の自由なし?
政治家には表現の自由なし?
2022.5.4付け東京新聞の「本音のコラム」で斎藤美奈子氏は、安倍晋三氏が2012年2月に大阪で開かれたシンポジウムで行った次の発言を批判している。
「(教育に)政治家がタッチしてはいけないのかといえば、そんなことはないわけですよ。当たり前じゃないですか」
私は安倍氏のいうとおり「当たり前」だと思う。政治家であれ、学者であれ、会社員であれ、スポーツ家であれ、芸能人であれ、主婦であれ、子供の教育に関心を持つのは当然である。むしろ義務である。そのために衆知を結集することにどんな問題があるというのか。政治家は教育に関心を持ってはいけないのか。
「タッチする」という言葉は元来は身体に関する言葉であったが、ここでは「関わる」「関知する」「意見を言う」ということだと考えてよいだろう。なぜ政治家が意見を言ってはいけないのか。法の平等は政治家には認められないのか。政治家の意見こそ参考になりうるというのに。
安倍氏が保守派の代表格であることは私も知っている。だからかれの発言には常に警戒感を持って接している。だが、意外なことに、かれの発言そのものはいつもしごく穏当で、常識の範囲を逸脱していない。
安倍氏が本年2月27日、フジテレビでおこなった「核共有論」に関する発言もそうである。
「世界の安全がどのように守られているのかという現実の議論をタブー視してはならない」(3月1日、東京新聞、p.3、3月2日、同、社説)
新聞の他の面には
「安倍氏発言の愚」
「ウクライナ危機に乗じ『核共有論議を』」
という見出しがあり、次の言葉がある。
《安倍さんは北大西洋条約機構(NATO)での事例を紹介し、「日本の国民の命。国をどうやれば守れるか、さまざまな選択肢を視野に入れて議論するべきだ」とよどみなく語った。》
以上三つの安倍発言は私には全くまともなものに思われる。かれは「核共有せよ」といっているのではない。核共有について考えてみようと言っているのである。考えてみた結果、共有しないほうがよいという結論に至ることもありうるのである。いまは考えるときだという考えは決して唐突なものではない。
批判者は例の「忖度」を心配しているのかもしれない。安倍氏が核共有を持ち出しただけで「核共有せよ」といわれたと解釈する人がいるに違いないと考えるのだろう。だが、それは安倍氏の責任ではない。そんな忖度をする人間の責任である。
新聞にはこんな言葉も記されている。
「九条で平和は守れます。ロシアにあれば戦争は起きなかったし、そんな世界を目指すのが政治と外交でしょう」
では九条がなかったらどうなるのか。ロシアには九条がなかった。だから戦争は起きた。いまさらそんなことを言って何になるのか。いま考えるべきことは、いま起きているような出来事にはどう対処すべきかということではないか。
こんな言葉も記されている。
「核兵器使用も辞さない姿勢を示すプーチン大統領には『断じて許されない』という非難の声が挙げられた。」
声を挙げても、プーチンは聞く耳をもたない。声を挙げても何の役にも立たない。それが分かったから、ではどうするかを考えようというのではないか。「乗じて」というが、危険が迫った時、それに対して反応することを「乗じて」とは言わない。
かれらの言葉を聞いていると、現実から遊離した世界に漂っている人間の言葉を聞く思いがする。
2022.5.4付け東京新聞の「本音のコラム」で斎藤美奈子氏は、安倍晋三氏が2012年2月に大阪で開かれたシンポジウムで行った次の発言を批判している。
「(教育に)政治家がタッチしてはいけないのかといえば、そんなことはないわけですよ。当たり前じゃないですか」
私は安倍氏のいうとおり「当たり前」だと思う。政治家であれ、学者であれ、会社員であれ、スポーツ家であれ、芸能人であれ、主婦であれ、子供の教育に関心を持つのは当然である。むしろ義務である。そのために衆知を結集することにどんな問題があるというのか。政治家は教育に関心を持ってはいけないのか。
「タッチする」という言葉は元来は身体に関する言葉であったが、ここでは「関わる」「関知する」「意見を言う」ということだと考えてよいだろう。なぜ政治家が意見を言ってはいけないのか。法の平等は政治家には認められないのか。政治家の意見こそ参考になりうるというのに。
安倍氏が保守派の代表格であることは私も知っている。だからかれの発言には常に警戒感を持って接している。だが、意外なことに、かれの発言そのものはいつもしごく穏当で、常識の範囲を逸脱していない。
安倍氏が本年2月27日、フジテレビでおこなった「核共有論」に関する発言もそうである。
「世界の安全がどのように守られているのかという現実の議論をタブー視してはならない」(3月1日、東京新聞、p.3、3月2日、同、社説)
新聞の他の面には
「安倍氏発言の愚」
「ウクライナ危機に乗じ『核共有論議を』」
という見出しがあり、次の言葉がある。
《安倍さんは北大西洋条約機構(NATO)での事例を紹介し、「日本の国民の命。国をどうやれば守れるか、さまざまな選択肢を視野に入れて議論するべきだ」とよどみなく語った。》
以上三つの安倍発言は私には全くまともなものに思われる。かれは「核共有せよ」といっているのではない。核共有について考えてみようと言っているのである。考えてみた結果、共有しないほうがよいという結論に至ることもありうるのである。いまは考えるときだという考えは決して唐突なものではない。
批判者は例の「忖度」を心配しているのかもしれない。安倍氏が核共有を持ち出しただけで「核共有せよ」といわれたと解釈する人がいるに違いないと考えるのだろう。だが、それは安倍氏の責任ではない。そんな忖度をする人間の責任である。
新聞にはこんな言葉も記されている。
「九条で平和は守れます。ロシアにあれば戦争は起きなかったし、そんな世界を目指すのが政治と外交でしょう」
では九条がなかったらどうなるのか。ロシアには九条がなかった。だから戦争は起きた。いまさらそんなことを言って何になるのか。いま考えるべきことは、いま起きているような出来事にはどう対処すべきかということではないか。
こんな言葉も記されている。
「核兵器使用も辞さない姿勢を示すプーチン大統領には『断じて許されない』という非難の声が挙げられた。」
声を挙げても、プーチンは聞く耳をもたない。声を挙げても何の役にも立たない。それが分かったから、ではどうするかを考えようというのではないか。「乗じて」というが、危険が迫った時、それに対して反応することを「乗じて」とは言わない。
かれらの言葉を聞いていると、現実から遊離した世界に漂っている人間の言葉を聞く思いがする。
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