法華経と涅槃経
法華経と涅槃経
仏教経典の中で『法華経』と『涅槃経』は特別な存在のように感じられる。この経を読んでいると、すべての人の幸せを追求しないではいられないという経作者の情熱がひしひしと伝わってくる。
経典の始めに、まず仏がその経典を説くための舞台設定が行われるのであるが、それが実に煩瑣である。法を聞くために集まった人々の紹介が延々として続くのである。仏教で知られているあらゆる比丘の名、あらゆる菩薩の名、ヒンドゥー教のあらゆる神の名、在家信者の名、龍や夜叉の名、が延々として続くのである。(これは大乗経典の常套手段であって、ここで問題にする二経典に限ったことではない)。「こんなことだから仏教経典はキリスト教のコンパクトな聖典に後れをとってしまうのだ」と腹立たしくなるほどである。
しかし、思いなおしてみれば、これだけのエネルギーを注ぐ情熱は尋常なものではない。それだけ人々の幸せを願う気持ちに心が煮えたぎっているのだと思うと、初めの怒りは称賛の気持ちに変わるのである。
この二経典は二大テーマを共通にすることによって姉妹経典と呼ぶことができる。二大テーマとは
1.いかにしたらすべてのひとを幸せにすることができるか
2.仏はこれまで言われてきたように八十歳で死んだのではない。永遠に生きており、死んだというのは方便のための見せかけにすぎない。
しかし、この二経典には違いもある。『法華経』は全ての衆生に分かりやすい言葉を使って説く。『涅槃経』は難解な言葉をまじえて説く。それぞれの譬喩も、『法華経』のは難解な教義など知らなくても理解できる(長者窮子の喩、衣裏繋珠の喩、など)。『涅槃経』のは、多少の知的教養を必要とする(良医の喩、群盲象を撫づの喩、五味の喩、など)。一言でいえば、『法華経』は文学的、『涅槃経』は哲学的、ということができる。
『涅槃経』は「五味」の教説を説き、諸仏典を五つに分類し、内容の深さに応じて五つの味になぞらえたが、最高の味(醍醐味)を持つ経典は『涅槃経』であるといって自画自賛している。その気持ちは分からないではない。
しかし、後世、人気を誇るようになったのは『法華経』のほうである。実にこの経典は分かりやすい。二大テーマが重要であることも、経典に含まれる章名、「方便品」と「寿量品」によって納得しやすくなっている。『法華経』以前の仏教では、大乗仏教は仏の真正の教えであるが小乗の教えは不完全な教えであると差を強調していたのであるが、「方便品」ではその差は方便によるものであって、それぞれ意義のあるものであったとする。すなわち仏は衆生の理解力に応じて法を説いたのであり、ちょうど嬰児にいきなり成人の食べ物を与えれば腹を壊すから乳を与えるようなものであり、成人用の食べ物はそうして育ったあかつきに与えればよいという考えにもとづくというのである。
『法華経』は多くの仏教徒の心をとらえた。なかんづく日蓮はこの経にぞっこん惚れ込んだ。そして宮沢賢治は日蓮を介して法華経の熱烈な信者になった。賢治の言葉に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)というのがあるが、これこそまさに『法華経』の精神である。
以前、かれの未完の主著『銀河鉄道の夜』がアニメ映画化されたことがある。その美しい情景の中でひときわ印象深いのがさまざまなキリスト教的イメージである。汽車が南十字星駅に停車すると、窓の外に光輝く十字架が出現し、天使たちが白い衣を着て出迎えている。乗客のうちのキリスト教徒はみないそいそと下車して、出迎えの中に入ってゆく。このほかにも汽車の運行中、諸所にキリスト教的イメージが現れ、カトリック視聴覚協議会はこの映画に賞を与えたほどである。映画を見たひとたちもこれはキリスト教の作品だと思ったようである。
情けないことに、ジョバンニが車掌に見せた切符――ジョバンニが死なないうちにこの汽車に乗れた秘密を明かすこの切符――に記された「おかしな十ばかりの字」(南無妙法蓮華経日蓮)の意味の解説はどこにも現れなかった。脚本家は、日本人でありながら、賢治の精神がどこにあるか知らなかったのである。
まして、つぎのことがらの意味を知るものはほとんどいなかった。南十字星で車内ががらあきになっても、ジョバンニとカンパネルラは下車せず、走り続ける汽車に残って窓の外の暗い景色に目をやっていた。カンパネルラはそこにいるであろう母を想い、ジョバンニは忘れられた多くの人々に思いを馳せたのである。
賢治は『法華経』の精神がキリスト教とどこが違うか比較宗教論を試みようとしたに違いない。もちろん賢治はキリスト教に学ぶべきことがさまざまあることを知っている。そしてそれを紹介することにより、さらにその上を行く仏教がどんなに素晴らしいものであるかを示したかったに違いない。だがかれはキリスト教のイメージの紹介に熱を入れ過ぎた。そのため仏教を知らぬ日本人に映画はキリスト教徒の作品だと思わせる番狂わせを演じてしまったのである。
仏教経典の中で『法華経』と『涅槃経』は特別な存在のように感じられる。この経を読んでいると、すべての人の幸せを追求しないではいられないという経作者の情熱がひしひしと伝わってくる。
経典の始めに、まず仏がその経典を説くための舞台設定が行われるのであるが、それが実に煩瑣である。法を聞くために集まった人々の紹介が延々として続くのである。仏教で知られているあらゆる比丘の名、あらゆる菩薩の名、ヒンドゥー教のあらゆる神の名、在家信者の名、龍や夜叉の名、が延々として続くのである。(これは大乗経典の常套手段であって、ここで問題にする二経典に限ったことではない)。「こんなことだから仏教経典はキリスト教のコンパクトな聖典に後れをとってしまうのだ」と腹立たしくなるほどである。
しかし、思いなおしてみれば、これだけのエネルギーを注ぐ情熱は尋常なものではない。それだけ人々の幸せを願う気持ちに心が煮えたぎっているのだと思うと、初めの怒りは称賛の気持ちに変わるのである。
この二経典は二大テーマを共通にすることによって姉妹経典と呼ぶことができる。二大テーマとは
1.いかにしたらすべてのひとを幸せにすることができるか
2.仏はこれまで言われてきたように八十歳で死んだのではない。永遠に生きており、死んだというのは方便のための見せかけにすぎない。
しかし、この二経典には違いもある。『法華経』は全ての衆生に分かりやすい言葉を使って説く。『涅槃経』は難解な言葉をまじえて説く。それぞれの譬喩も、『法華経』のは難解な教義など知らなくても理解できる(長者窮子の喩、衣裏繋珠の喩、など)。『涅槃経』のは、多少の知的教養を必要とする(良医の喩、群盲象を撫づの喩、五味の喩、など)。一言でいえば、『法華経』は文学的、『涅槃経』は哲学的、ということができる。
『涅槃経』は「五味」の教説を説き、諸仏典を五つに分類し、内容の深さに応じて五つの味になぞらえたが、最高の味(醍醐味)を持つ経典は『涅槃経』であるといって自画自賛している。その気持ちは分からないではない。
しかし、後世、人気を誇るようになったのは『法華経』のほうである。実にこの経典は分かりやすい。二大テーマが重要であることも、経典に含まれる章名、「方便品」と「寿量品」によって納得しやすくなっている。『法華経』以前の仏教では、大乗仏教は仏の真正の教えであるが小乗の教えは不完全な教えであると差を強調していたのであるが、「方便品」ではその差は方便によるものであって、それぞれ意義のあるものであったとする。すなわち仏は衆生の理解力に応じて法を説いたのであり、ちょうど嬰児にいきなり成人の食べ物を与えれば腹を壊すから乳を与えるようなものであり、成人用の食べ物はそうして育ったあかつきに与えればよいという考えにもとづくというのである。
『法華経』は多くの仏教徒の心をとらえた。なかんづく日蓮はこの経にぞっこん惚れ込んだ。そして宮沢賢治は日蓮を介して法華経の熱烈な信者になった。賢治の言葉に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)というのがあるが、これこそまさに『法華経』の精神である。
以前、かれの未完の主著『銀河鉄道の夜』がアニメ映画化されたことがある。その美しい情景の中でひときわ印象深いのがさまざまなキリスト教的イメージである。汽車が南十字星駅に停車すると、窓の外に光輝く十字架が出現し、天使たちが白い衣を着て出迎えている。乗客のうちのキリスト教徒はみないそいそと下車して、出迎えの中に入ってゆく。このほかにも汽車の運行中、諸所にキリスト教的イメージが現れ、カトリック視聴覚協議会はこの映画に賞を与えたほどである。映画を見たひとたちもこれはキリスト教の作品だと思ったようである。
情けないことに、ジョバンニが車掌に見せた切符――ジョバンニが死なないうちにこの汽車に乗れた秘密を明かすこの切符――に記された「おかしな十ばかりの字」(南無妙法蓮華経日蓮)の意味の解説はどこにも現れなかった。脚本家は、日本人でありながら、賢治の精神がどこにあるか知らなかったのである。
まして、つぎのことがらの意味を知るものはほとんどいなかった。南十字星で車内ががらあきになっても、ジョバンニとカンパネルラは下車せず、走り続ける汽車に残って窓の外の暗い景色に目をやっていた。カンパネルラはそこにいるであろう母を想い、ジョバンニは忘れられた多くの人々に思いを馳せたのである。
賢治は『法華経』の精神がキリスト教とどこが違うか比較宗教論を試みようとしたに違いない。もちろん賢治はキリスト教に学ぶべきことがさまざまあることを知っている。そしてそれを紹介することにより、さらにその上を行く仏教がどんなに素晴らしいものであるかを示したかったに違いない。だがかれはキリスト教のイメージの紹介に熱を入れ過ぎた。そのため仏教を知らぬ日本人に映画はキリスト教徒の作品だと思わせる番狂わせを演じてしまったのである。
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