観念論者の死刑論

観念論者の死刑論

 2022.8.6付け東京新聞の「読書欄」に平野啓一郎著『死刑について』(岩波書店)に対する若松英輔氏の書評がある。私は本書を読んでいないが、書評によって感想を述べてみよう。
 平野氏は初め「消極的な死刑肯定論者」であったが、のちに死刑反対論者になったという。
 若松氏によれば、「その経緯を、概念的にではなく、どこまでも経験的に述べる(平野氏の)姿は、いかにして自分は『いのち』に出会い直したのか、というある種の告白にもなっている」ということであるが、私にいわせれば、逆に全く概念的であり、その「経験」は浅薄にしかみえない

 私自身は死刑の目的(意義)は次の二つであると考えている。

 (1) 被害者の家族が憎しみの感情から解放されること
 (2) 新たな犯罪の発生を抑止すること

 このうち重要なのは(1)である。これについて説明する。

 殺されたひとの肉親は加害者に対して激しい怒りと憎しみを抱く。当然である。肉親だけでなく、第三者も遺族に同情し、加害者に激しい怒りを感じる。いわゆる社会的正義である。だから、加害者には相当の報いを与えるべきである。日本では昔から仇討の話が美談として語られることが多かった。これが人情である。
 遺族がこの憎しみの感情に苦しめられることはいかばかりか。加害者に死を望むのは当然である。しかし、現代世界では遺族が自ら加害者に死を与えることはできない。そこで公権力が代わって死を与える。遺族はできれば自分で手をくだしたいのだが、しかし、これでも大きな慰めになる。
 遺族が加害者を赦すケースもある。しかしそれはまれなケースである。もし死刑制度がなければ、遺族は一生憎しみの心で苦しみつづけることだろう。加害者が死刑になることによって、加害者に対する憎しみが(完全にとはいえないまでも)消えるのである。加害者のほうもこれは当然の報いと考えて死を受け入れるのである。加害者の人権を重視して、被害者の遺族に地獄の苦しみを味あわせ続けるアンバランスに比べれば、これは素晴らしい制度というべきである。
 若松氏によれば、平野氏は「どこまでも経験的に述べる」そうである。平野氏は妻と娘が殺された本村洋氏の手記を読んだだろうか。(「WILL」2008.JUNE、「光市母子殺人に死刑判決! 本村洋さん独占手記」)

 帰宅して奥の居間に入った時、私はテーブルやカーペットの位置がずれ、ストーブの上にあるはずのやかんが下に転げ落ちているのを発見した。明らかにおかしい。
 「弥生、弥生」名前を読んでも返事はなかった。(中略)
 私は受話器を持ったまま、義母に異変を告げながら押し入れのふすまを開けてみた。その瞬間――。
 私の目に信じられない光景が飛び込んできた。
 押し入れの下の段に人間の形をしたものが押し込まれていたのである。それには座布団が四、五枚かけられていて、その隙間から足首が見えた。
 私はふるえながら、その座布団をはねのけた。それは思い出しても恐ろしい光景だった。
 弥生が口をガムテープで塞がれ、着ていたカーディガンを腕に巻き付けたまま手を頭の上で縛られ、全裸の状態で息絶えていたのである。
 首を絞めて殺された弥生は、その朝、夕夏(1歳の娘)と一緒に私をにこやかに送り出してくれた美しい弥生ではなかった。その体は冷たく硬直し、顔はところどころ青紫に鬱血していた。その表情は、無念の中、苦しみ、もがきながら死んだことを、現実を拒絶する私に容赦なく伝えた。F(18歳)は弥生を絞殺した後、汚物にまみれた下半身を拭き取ってまで死後レイプに及んだことを、私はのちの裁判で知った。
 私は絶望のあまり何度も自殺を考え、実際に遺書まで書いた。そのたびに私の挙動を不審に思った周囲の人々が、私に「死」の無意味さを説き、私を闘いの場に呼び戻してくれた。

 1999年8月の初公判で、それまで全く知らなかったF の犯行の詳細が次々と明らかになった。
 水道設備会社の作業服姿で水質検査を装って我が家に侵入したFは、弥生をうしろから羽交い絞めにして倒し、肩を抑え、大声で抵抗する弥生を “殺してからやれば簡単だ” と、咽喉ぼとけに全体重を乗せておさえつけ、窒息死させ、そして、死後レイプしたのだ。
 さらにF は、傍らで泣きやまない夕夏を頭から床に叩きつけた。気を失った夕夏は、それでも息を吹き返し、ハイハイして必死で母親の方へ這っていった。今度は首を絞めて夕夏を殺そうとした。しかし首が細すぎてなかなか絞まらないため、Fはあらかじめ用意していた紐を夕夏の首に巻き付け、そして絞め殺した。

 2002年3月、広島高裁で、検察が、F がかつての拘置所仲間に書き送った手紙を読み上げた。

 〈誰がゆるし、誰が私を裁くのか・・・そんな人物はこの世にいないのだ。神になりかわりし、法廷の守護者たち・・・裁判官、サツ、弁護士、検事たち・・・。私を裁ける者はこの世におらず・・・二人は帰ってこないのだから〉

 〈犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか〉

 〈知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。始終笑うのは悪なのが今の世だ〉

 〈五年+仮で八年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目の犠牲者が出るかも〉

 〈ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君〉

 死刑廃止運動を進める安田好弘、足立修一、両弁護士は記者会見で説明した。

 事件は、F が甘えたい一心で弥生に抱きつき、弥生が大声を出して暴れたので、口を押えたら死んでしまった「傷害致死事件である」というのだ。また夕夏が泣き止まないのであやそうと思って、紐を蝶々むすびにしたら、死んでしまった、という。「二人はたまたま死んだ」のだから、これは殺人でもなく、無期懲役でも重すぎるというのである。

 2007年の広島高裁差戻し控訴審では弁護団はこう言った。

 この事件は、母恋しさ、寂しさからくる抱きつき行為が発展した傷害事件であり、凶悪性は低い。死後、セックスしたのは、精子を注ぎ込めば死者が蘇るのではないか、という「復活の儀式」であった。

 手記はまだ続くが、ここで止めよう。事件がいかに非道なものであったか十分に伝わったと思う。

 平野氏は「概念的にではなく」、どこまでも「経験的に述べている」そうであるが、とんでもない。彼に本村氏の経験を理解することはできなかったのである。
 平野氏は死刑を廃止するべきだという理由を次のようにあげる。

 (1)現行の捜査の態勢、裁判制度では冤罪を生み得るから。
 「生み得る」とは「必ず生む」ということを意味しない。生まないこともある」を意味するのだ。秋葉原の事件、安倍氏銃殺事件、これは犯人がその場で取り押さえられているから、冤罪になりようがない。
 (2)加害者となった人物を社会そのものが生み出している可能性があるから。
 「可能性がある」とはそういう場合もあるということを意味する。「必ずそうなる」ということを意味しするのではない。単なる利己心から悪事を働く人もいるのである。
 (3)人を殺してはならないという掟は死刑を含んで絶対的に守られるべきだと考えられるから。
 「人を殺してはならない」という掟がどこにあるのか。だれがそんな掟を定めたのか。「人を殺してはならない」というのは、あくまでも「正当な理由なくしては殺してはならない」ということである。

 以上の平野氏の論に私は、一部の事例を一般化する観念論者の弊を見る。

 私は冒頭にの死刑の目的を二つあげたが、(2)より(1)が大事である。(1)こそ死刑の本当の目的である。これを憎しみの連鎖というなかれ。これは被害者の家族の心を憎悪の念から解放する愛の精神の現れなのである。加害者は死ぬことになるが、それによって被害者の家族の心が救われることになることをせめてもの償いとすべきでなのある。

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