宗教団体とエセ宗教団体

宗教団体とエセ宗教団体

 統一教会に対する解散命令を巡って「政教分離」という言葉が飛び交っている。言葉は簡単であるが、いざ「教」(宗教)とは何かとなると定義が難しく、そのため「解散命令」の実行も滞りがちである。
 私の考えでは、ある団体が宗教団体であるか、宗教に名を借りた集金団体であるかを判断する簡単な方法がある。その団体が金銭にこだわるか、こだわらないかを見ることである。

 仏教やキリスト教は宗教団体である。金銭にこだわらない。むしろ幸せは金銭では買えないと教える。両宗教にそのことを示す訓話がある。

🔹仏教の「貧者の一灯」

 アジャータシャトル王(阿闍世王)はブッダを供養するために百石という大量の油を使って仏の前で多くの灯明を灯した。
 ある貧しい老婆がそれを見て、信仰心を起こし、自分も灯明を灯したいと思い、乞食をしてやっと二銭を手に入れ、油を買って仏の前で灯明を灯した。
 夜中になって、王が灯した灯明は一つずつ消えていったが、老婆の灯した一灯だけはあかあかと燃え続けた。
 仏が弟子の目連に言った。「空が明るくなってきた。灯明を消しなさい」
 目連は灯を順々に消して行ったが、老婆の一灯だけは消すことができない。袈裟をうち振って消そうとしたが、灯はかえって明るさを増すだけであった。
 仏が目連に言った。
 「よしなさい。この光明には絶大の功徳がこもっている。お前の神通力でも消すことはできない」
 老婆が灯明の様子を見にくると、仏は彼女を祝し、彼女が将来仏になることを予言した。老婆は大いに喜び、仏に敬礼して立ち去った。
 王がその出来事を耳にして大臣ジーヴァに聞いた。
 「私はあれほどの大規模な功徳を施したのに、仏は私に何の予言もして下さらなかった。あの老婆はたった一灯を灯しただけなのに予言してもらえた。なぜだろう」
 ジーヴァが言った。
 「王はたしかに大規模な供養をなさいましたが、信仰心が足らなかったのです。あの老婆が一途に仏を思う気持ちには及ばなかったのです」
  (『阿闍世王授決経』、『大正大蔵経』14、777a)

🔹キリスト教の「やもめの献金」

 イエスは目を上げて、金持たちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。あの金持たちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。
  (『ルカ福音書』、20-21)

🔹達磨と梁の武帝

 達磨(正式には菩提達磨)はインド人。禅を伝えるために中国に渡った。梁の武帝がかれと会談した。武帝がいった。
 「朕は寺を建てたり、僧団に寄与したりした。功徳はいかばかりか」
 達磨は答えた。
 「無功徳」
  (『碧巌録』第一則【評唱】)

 これに対し、統一教会は金銭にこだわることで有名である。祖先の霊を救うためと称して、信者に高額の印鑑、数珠、多宝塔を買わせる。神の子となるためには神への献金が必要だと言って、何千万円、何億円もの献金をさせる。霊感商品の値段や献金額に段階をつけ、信者の心を高いほうへ高いほうへと煽り立てる。まるで商売人である。
 仏教やキリスト教は、その数千年という歴史において、そんなことは一度もしたことがない。
 統一教会が宗教であるかないか、ひとは何を迷っているのか。

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