「御名(みな)を呼ぶ」と「称名」

「御名(みな)を呼ぶ」と「称名」

 仏教の「行」(ぎょう、宗教的行為)に念仏、観仏、称名がある。
 前二者は「心に想う」ことであって、外的存在を必ずしも必要としない。これに対し、称名は何らかの意味で外的存在と関わる。「称」は「たたえる」と読むとそうでもないが、「となえる」(=唱える)と読むと口を動かすことを意味するから、外的行為となる。
 インドには「念想」「黙想」の伝統が古くからあり、仏教に念仏や観仏の行があることは異とするに当たらない。だが称名はどうであろうか。
称名は浄土教において重要な行になるが、浄土教の所依の経典である『無量寿経』では称名にそれほど重きが置かれていないように思われる。『無量寿経』の四十八願には「アミダ仏の名を聞く」ことが重視されているが、「聞く」と「称える」ことのあいだには大きな隔たりがある。「聞く」は受動的で一方的な行為であるが、「称える」(たたえる、唱える)はその行為の対象となる存在を考えねばならないという双方向的な行となる。客観的な外的存在を予定しなければならないような行は大乗の基本的な思想である「空」の教義に反するので、浄土教は伝統的な仏教徒からは異端として非難されることになる。
 ともかく歴史的事実として浄土教が誕生した。これは自力で悟ることを断念し、アミダ仏という他者の存在を前提として、アミダ仏の力によって救われようとする思想である。そのための行として念仏があり、称名がある。
 だが前者(念仏)は簡単そうに見えていて実は難しい。仏のすがたなどだれにも思い描くことはできないからである。それに対し後者(称名)は簡単である。たった「阿弥陀仏」という短い名前を称えるだけでよいのである。
 だがそれでも易行としてはまだ十分ではなかった。「称える(=称賛する)」という行為は心の中だけでもできる。だが、心の中だけで出来る行為はすぐ他の雑念に覆われてしまう。このとき善導らがアミダの名を口にすることを思いついたのである。これは簡単であり、そのことが雑念の発生を抑えるのに役立つ。この称名を従来の広意義すぎる念仏とはっきり区別するために「口称念仏」と呼ぶ。これは「一文不知」の衆生にとってはこの上なく有難い教えとなった。
 ところで私の頭からいつも離れないのが、仏教における口称念仏の誕生にはキリスト教の「御名を呼ぶ」思想の影響があるのではないかということである。ユダヤ教やキリスト教ではこの思想が信者のあいだに浸透していた。

 〇 ユダヤ教

 「主(エホバ)の御名を呼んだ」(『創世記』12:8、21:33)

 「かれ(異邦人)もわたし(エホバ)の名を呼ぶ」(『イザヤ書』41:25)

 〇 キリスト教

 「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」(『ロマ書』10:13)

 「わたしたちの主イエス・キリストの御名を呼び求めているすべての人」(『Ⅰコリント』1:2)

 私が考える影響関係を証拠づける歴史的資料があるかどうか私は知らない。しかし、キリスト教の影響力を考えれば(聖トマスはインドに伝道した)、なんらかの影響があったとしても少しもおかしくない。心に思うだけの称名から口にする称名への移行は簡単そうにみえていて、そうではないのではないか。ここには発想を飛躍させる何らかのきっかけがあったのではないかと考えるのである。善導が生きた時代は7世紀である。キリスト教と仏教の世界はまるで異質の世界に見えるが、ともに宗教である。仏教徒が(間接的にでも)異教の思想に触れたり、それから刺激を受けたということは十分考えられると思うのである。
 最後にひとことすれば、キリスト教の「御名を呼ぶ」思想と仏教の「口称念仏」のあいだには決定的な違いがある。キリスト教の「御名を呼ぶ」は神が存在するという先祖伝来の言い伝えを疑うことなく受け入れる人たちのものであるのに対し、仏教の口称念仏は合理的な思考に鍛錬された知識人にも受け入れられるような(道元の「自己を忘るるとは万法に證せらるるなり」にも通底するような)知的な基盤の上に築かれたものであるということである。仏教のほうには念仏を何遍も繰り返すという考えがある。これはそれによって無我の境地に没入するという般若方便の知恵を表し、キリスト教では生まれない発想である。
 

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