善意の空回り

善意の空回り

 2022.10.16付け東京新聞の「時代を読む」欄に山田健太氏が「善意の空回り と危険性」という題で書いている。
 趣旨は、「政府が『よかれ』と思ってなす善意の行動が裏目に出る場合が多い。『善意』を疑うことが必要な局面に来ている」ということである。
 私はその大綱には必ずしも反対しないが、細かい点で疑問がある。氏はいう。

 《世の中は「善意」で回っていることが多い。首相が非業の死を遂げた同期議員を最高の形で弔いたいと思ったのも、自らの政治信条を実現するために親切で熱心な宗教団体の助けを借りるのも、悪意はなかったはずだ》

 私は「世の中は『善意』で回っていることが多い」の「善意」は「利己的関心」に改めるべきだと思う。
 このことは「善意」を二つに分けることによって簡単に理解できる。「自分たちのための善意」と「相手(自分と立場を反対にする人)のための善意」である。「首相が非業の死を遂げた同期議員を最高の形で弔いたいと思った」(「非業の死を遂げた首相を同期議員が最高の形で弔いたいと思った」の意に解して置く)のは「自分たちのための善意」である。
 「自らの政治信条を実現するために親切で熱心な宗教団体の助けを借りる」のも「自分たちのための善意」である。「相手(自分と立場を反対にする人)のための善意」を考えているのではない。したがって自分たちのためには決して空回りしていない。相手の立場にたったとき初めて空回りしていることになる。
 氏はつづける。

 《 しかし、「知らなかった」として自身の選択を正当化したり、責任がなかったかのように振る舞ったりするのは、政治家としての説明責任を放棄するものである。
 なぜ国葬にしたのか、どうして旧統一教会と手を組んだのかを、一政治家として党・政府の最高責任者として正直に語ることから、民主主義は始まる》

 この言葉には同意することができる。政府は国民から疑問を突き付けられたら、それに丁寧に答えるのが民主主義である。国葬にした理由、統一教会と癒着した理由を堂々と述べればよいではないか。盗人にも五分の理あり。ましてや政府である。堂々と述べることが出来るはずである。なぜ癒着に関して謝ってばかりいるのか。そんなにかれらはいい加減なことばかりしてきたのか。
 山田氏は善意が空回りした例をこれ以外にも多数あげるが、みな私がいった「善意」の解釈によって別様に解釈できるものである。

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