「歴史」は「物語」でもある

「歴史」は「物語」でもある

 2022.11.5付け東京新聞の「視点」欄に森田真奈子氏の「ウトロ放火で実刑」「歴史否定 軽視するな」という見出しの論考がある。
 論考の前半では有本受刑者が朝鮮人の集落に放火した動機が語られている。「韓国人の歴史主張の著しい誤り」を知り、「排韓思想に至った」というのである。
 論考の後半では「歴史修正主義」と「排外主義」の関係が論じられている。「排外主義」はネットなどに見られるように単純で感情的なものが多い。それに対し学問を装った「歴史修正主義」は「目立ちにくく、ヘイトの隠れみの」になる。「歴史修正」は「歴史否定」ともいい換えられているが、保守政治家はこれを「嬉々として押し進める」というのである。
 「外国人は出て行け」という発言に対してさえ法規制は緩やかであるが、「歴史修正主義」はさらに野放しになっており、これがヘイトを許容する土壌になっている。「排外主義」に走った有本が「歴史修正」にこだわっていることから分かるように、「歴史否定」の風潮は軽視すべきではない。以上が森田氏の主張である。
 
 私は論考の後半部分について批評したい。
 森田氏は「歴史修正」あるいは「歴史否定」という言葉を繰り返すが、「歴史」とはいったいなにか。私の見るところ、氏と氏に同調するひとたちは「歴史」を「過去の事実」と見ているように感じられる。これは誤りである。
 氏らは「歴史」を過去の一つの事実と見るから、これに一致しないものはすべて誤りと考えるのである。だが「過去の事実」を知ることのできるものは誰もいない。せいぜい「過去の事実の」一面を知ることができるだけである。
 ヘロドトスの『歴史』はギリシャ語では “Historiai” であるが、この語は「物語」(story)をも意味する。すなわち「出来事を見て語ったもの」を意味するのである。したがって見るひとの数だけ多くの「歴史」がある。
 いかなる歴史家も事実そのものを把握することはできない。その一面を把握するのみである。したがって「歴史」を正しく扱うということは、「歴史」にはいろいろあるということを弁えることであって、そのどれか一つを絶対視して他を誤りとし、たとい論敵が言い出したことであっても「修正する」とか「否定する」とか安易な物言いをしないことである。

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